2009年9月6日放送 左手のピアニスト・舘野泉(1)『再びつかんだ音楽』
左手から出される響きは多くの聴衆を魅了しています。舘野さんは3年前の出血で倒れ、右半身に麻痺が残りました。ピアニストの道を絶たれ、苦しみ抜いた一年半。でもそこには両手で奏でる音楽と変わらない世界がありました。
舘野さん
「音がうねって、波のように広がって、光もあって、そういうことが全部ある。そのことが分かった。それでまた生きる喜び、生きる意味というのがちゃんとつかめた。 やっぱりすごく一音一音が愛おしかった。」
絶望の淵に立たされながら、再び音楽の道に進んだ一人のピアニストの物語です。
2002年、コンサート中に脳出血で倒れる。
2002年1月舘野さんはフィンランドで行われたリサイタル上のステージで倒れました。その時の様子を舘野さんは記しています。「リサイタルの最後の曲、グリーグの『トロールハウゲンの婚礼の日』が華やかな終末を迎えようとしていた時のことだった。突然右手の運びがおかしくなり、左手とのズレが大きくなり始めた。片方の車輪が軌道から外れて、次第に動きを失っていくようだった。曲の終わりは左手のみで、右手は動かすこともできない。立ち上がってお辞儀をし、数歩あるいたところで床に崩れ落ちた。」
倒れた直後、大学病院に運ばれ、診断の結果は脳出血。直径3センチ程の出血が見つかりました。
舘野さん
「右半身が麻痺ということで、最初は口も聞けないですし、頭が回らないです。全然回転しないんですよね。1ヶ月ぐらいは大学病院にいて、重症患者の方に入れられて。」
容態が落ち着き、病院でのリハビリが始まりました。舘野さんが入院中に書き始めた日記には、麻痺が残る右手の回復を促すため、作曲家の名前をアルファベット順に書き連ねた様子が記されています。頭の中には常に音楽が鳴り続けていたのです。
2001年9月。倒れる3ヶ月前の東京オペラシティでのコンサートの様子が流れます。
世界各地で行なってきたリサイタルは約3000回。録音したレコードや CD は100枚に及ぶ。幅広いレパートリーと深い詩情に溢れた演奏は世界でも高い評価を受けてきた。この年、デビュー40周年を迎えた舘野さんは、自らの演奏活動をたどるリサイタルを行った。集大成ともいえるこのリサイタル終えた3ヶ月後、館野さんは倒れた。
2002年2月、舘野さんの入院生活は2ヶ月目に入っていました。日記の中には少しずつ回復を実感する記述が見られます。担当した医者も目を見張るほどの回復ぶりでした。
舘野さん
「すごく回復が早くて、だから自分で病気のことは知らなかったんだけど、半年もすれば演奏ステージに復帰できるだろうと思ってました。」
舘野さんはヘルシンキの町の中心部にあるアパートに住んでいます。2002年3月退院して自宅に帰りました。右手は日常生活ができる程度に回復はしていました。妻マリアさんは地元ヘルシンキの音楽大学で、声楽を教えています。
マリアさんは舘野さんがなるべく右手を使う機会を増やすように気を配っています。舘野さんに音楽が戻ってこなければ、本当の回復ではないとマリアさんは感じていました。
マリアさん
「すでに文字も書けるほどで、回復は早いと思いました。でも私は落ち着きませんでした。もしかしたら泉はピアノがもう弾けなくなるのではという不安と、いやきっとまた弾けるようになるという期待とがいつも心の中で交錯していました。」
退院して一週間、舘野さんは自宅からわずか50メートルの喫茶店へ出かけました。もう何も不自由はないと考えていたのです。
舘野さん
「妻のマリアが学校に行ってる間に隙を狙って3ユーロだったかな?お菓子を買えると思って出かけたんです。そしたらその50メートルぐらいの道を歩くのがその頃の体力じゃとっても厳しかったです。体はもちろん今よりも全然動かないですし、やっと辿り着いたけれども、這々の体で帰って、とにかくすぐ寝ました。」
体力のなさに愕然とし、さらに右手はピアノ弾けるまでには回復していませんでした。半年もすればステージに復帰できると考えていた舘野さんには厳しい現実でした。
舘野さん
「多くの人は慰めの言葉をかけてくれたけれど、『あーもう彼はピアニストとしてダメなんだ』と皆の表情から感じることがあった。」
チェリストだった父・弘さんが教えてくれたこと。
東京・自由が丘。舘野さんが生まれ育った町です。舘野さんはフィンランドに移り住んだ後も日本との間を行き来しています。2002年12月退院して半年、舘野さんは療養を兼ねて実家に帰りました。そして両手でピアノ弾いてみました。舘野泉著『ひまわりの海』から
ーピアノに触れてみた。この頃はバルトークの『15のハンガリーの農民の歌』を弾いていた。ゆっくりのものや、跳躍のスタッカートのない部分なら、なんとかかんとか音にはなるのである。ただ出てくる音には全く力がなかった。左も弱いが、右手は蚊の鳴くような音である。ー
父親はすでに亡くなり、母親の光(みつ)さん(2002年時点で90歳)が一人で暮らしています。
舘野さん
「病気になって最初に日本に来た時“下手だね”って、そうお母さんが言ったよ。」
光さん
「覚えはないけど。」
舘野さん
「“呆れた”って言ってたけど、もし他人が言ったら怒るけど、お母さんが言ったから怒らない。」
実家に帰るたびに触れるピアノ。ここは幼い頃、父親がピアノを教えてくれた場所でした。父親が育んでくれた音楽への思いが舘野さんの人生のを決めたのです。
1936年昭和11年、舘野さんは音楽家の両親の間に生まれました。チェリストだった父・弘さん。演奏家として第一線を退いた後は、音楽教育に情熱を注いでいました。
家ではピアノ教室を開いていました。100人以上の生徒を抱え、音楽が途切れることはありませんでした。父によれば舘野さんは5歳の5月5日に初めてピアノに触れました。
厳しい英才教育や、型にはめ込む教育は一切しなかった父。その教えは心のすべてを音楽に捧げるということでした。
舘野さん
「その頃は立派な演奏家になるとかそういうことではなくて“音楽というのはこんなにも素晴らしいんだ。その音楽をやっていくことは幸せなんだ”と。そして自分の子供が音楽の道へ進んで、掴んでいって体験しててほしい。だから将来、成功した以来ピアニストになるとかそういうような考え方じゃなかったと思います。」
フィンランドのヘルシンキを選んだ理由。
東京芸術大学を首席で卒業し、その半年後、館野さんはソロリサイタルを行いました。日本初演の曲など、好きな曲を選んで望んだ演奏会は大成功を収めました。その後も日本人作曲家だけのプログラムを組む、といった野心的な試みを成功させ、多くの人々から将来を期待されました。しかし舘野さんは日本に活動の拠点を置こうとはしませんでした。
26歳で国際コンクールに参加した時、一人でヨーロッパ各地を訪ねました。その中でも舘野さんはフィンランドに強く惹かれたのです。そして2年後、ヘルシンキに移り住みました。
舘野さん
「その時も猛烈にみんなから反対されました。“何でフィンランドに行くんだ?あそこに何があるんだ?北の果てで何もないじゃないか”。ドイツとかフランスとかイタリアもそうだし、そういういわゆる音楽文化の伝統がものすごく強いところに行く興味もなかったし、むしろ伝統の非常に強いところに住むのは危険だって思ってたかもしれない。」
「自分は日本で西洋の音楽を感じ、音楽をやってきた。そういう感性がヨーロッパの伝統の強いところに入って、“ここはこうですよ、この作曲家はこうですよ”ってやられるのは危険だと思ってた。」
西ヨーロッパそして日本の両方から距離を置き、自分の音楽を見つめたい。その思いが舘野さんをフィンランドに向かわせました。“人生で音楽を続けていけることほど幸せなことはない”そう言い続けてくれた父・弘さんは舘野さんを理解し、支えてくれました。
フィンランドの国民的な作曲家・シベリウス。1900年代初めシベリウスの音楽は民族的な意識を目覚めさせ、独立の機運を高めました。人々はシベリウスの功績を讃え、語り継いでいます。
ここで舘野さんが脳出血になる前の演奏が流れます。曲はシベリウス作曲の『もみの木』。
舘野さんはフィンランドを拠点に演奏活動を繰り広げました。数々のオーケストラと共演を果たし、ヨーロッパばかりだけでなく南米やアジアなどの作品などにも取り組んできました。
国や会場の規模設備など、舘野さんは演奏する条件を選びませんでした。自分のピアノを聞かせて欲しいと頼まれれば、それがどんな場所でも出かけていたのです。
舘野さん
「いいものをやれば必ず何か感じるんですよね。もうやっぱりそれは人間と人間がやってることだから。だからそういう意味では音楽ってのは素敵な仕事ですよね。世界のどこに行っても弾けるんですもの。僕はピアノがあればいいんです。ピアノが1つあればいいんですから。」
もちろん舘野泉さんのことは存じ上げていたのですが、あまり詳しく知らなくて、何気なく録画したら、なんとお父様がチェリストだったんですね。厳しい英才教育や、型にはめ込む教育は一切しなかったというのが舘野さんのピアノの音や、穏やかな話しぶりからも伺えます。それではNähdään huomenna!(フィンランド語でまた明日の意味です。読み方はナハダーン<また> フオメンナ<明日>。発音むずい。)
THE BEST 7 舘野泉 [ 舘野泉 ]
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