2009年9月6日放送 左手のピアニスト・舘野泉(2)『再びつかんだ音楽』

昨日からの続きです。

もう呼吸をすることができないって言われているようだった。

2002年冬、舘野さんは出口の見えない闇の中にいました。退院して半年が経ち、そして1年経っても右手はピアノを弾けるようにはなりませんでした。虚しく部屋に独り閉じこもる日々を送っていました。

「退院して戻ってきても、僕はほとんど一日中寝ている生活が続いたんですけど、その時にこのオス猫がいつも右の肩にほっぺたをくっつけるようにして寝てたんです。それまではそんなことなかったんだけど。 病院から帰ってきたら、そういう事が長く続いて。なんか不思議ですね。」

舘野泉著『ひまわりの海』より

ーピアノはいつも弾きたいと思っていた。たとえ30分でも毎日弾ければ良いと思った。でもそれは病気の現実の前に脆くも崩れていった。何をするにも気力体力が全くなかったが、右半身麻痺の事実はそれにも増して動かしがたいことであった。頭の中でも現実にも音楽は以前と同じようにしっかりと響き続け、右手では和音を掴み、旋律の流れを追うことにも不自由はなかった。でもそこからは動いてくれない。右手のバネが完全になくなっているのだ。意欲とは関係なしに右半身は無力であり無表情であった。ー

舘野さん
「生まれた時から、ずっとピアノを弾くのが当たり前だったんですよ。音楽をやるということは自分が呼吸をするようなもので。それが60年以上あったわけで。その世界が突然なくなっちゃった。だから言ってみれば“お前はもう呼吸をすることができない”って言われてるような。ピアノが弾けないとかそういう問題じゃなくて、呼吸をして息を吐いて、そうやって生きていくことが不可能なんだと思った。」

左手のための曲に出会う。

2003年春、舘野さんに転機が訪れました。舘野さんの息子・ヤンネさん29歳。ヴァイオリニストとして演奏活動を続けています。ピアニストの父を見て育ったヤンネさんは、幼い頃から音楽に強い興味を示しました。舘野さんは父・弘さんから学んだようにヤンネさんにも音楽をする喜びを伝えてきました。

いくつかのオーケストラに席を置いてるヤンネさんは演奏旅行で忙しく、飛び回る毎日送っています。ヤンネさんは演奏会の合間を縫っては、実家に立ち寄ります。

舘野さん
「あの教会はどうだい?気持ちよく弾けるかい?」

ヤンネさん
「よく音が聞こえないんだ。ちょっと暗いしね。」

舘野さん
「ピアノを弾くのも大変だよ。でも自分はあの響きが好きなんだ。」

ヤンネさん
「父さんは30周年記念の演奏会は、あの教会でやったよね。」

舘野さんが倒れた時、ヤンネさんはアメリカに留学していました。留学を終えて帰国した時、ヤンネさんは父親に一冊の楽譜を手渡しました。

それはイギリスの作曲家ブリッジが作曲した左手のためのピアノ曲『3つのインプロヴィゼーション』でした。

ヤンネさん
「ブリッジの曲は明るくて快活で、父の出す響きにぴったりだと思いました。私が左手の楽譜を持ち帰ったのは、この曲ならば父が気に入ってくれると確信していたからです。父がピアノから離れるとは思えませんでした。たとえプロとしての演奏家に戻らなくても、父がピアノから遠ざかるとはとても考えられなかったんです。」

舘野さん
「長いことピアニストとして復帰するってのは両手が揃ってからじゃないとと思ってた。右もちゃんと動くようになってから、復帰するんだと思ってた。だから左手だけのピアニストってのが考えの中になかったんですよね。ところがそのブリッジの作品をもらった。そして見てみてすごい素晴らしい世界だとそれでパッと切り替わっちゃった。それまでのことをずっとズルズルと引っ張ってきてっていうんじゃなくてパッと視線がいっぺんに変わってしまった。」

ここでブリッジ作曲『3つのインプロヴィゼーション』から『夜明けに』を弾く様子が流れます。

舘野泉著『ひまわりの海』より

ー音にしてみると大海原が目の前に現れた。氷河が溶けて動き出したような感じであった。左手だけでの演奏であるが、そんなことは意識に上がらず、ただ生き返るようであった。手が伸びて楽器と触れ、世界と自分が一体となる。音楽をするのに手が一本、二本の関係はなかった。ー



先日のもののあはれを弾くのアファナシエフさんもそうでしたが、舘野さんも猫を飼っていらっしゃったんですね。いつもお世話になっている伴奏の先生も猫を飼っているので、ピアニストと猫の相性がいいのかな。チェリストも猫を買ってらっしゃる方が多いですよね。それではNähdään huomenna!(フィンランド語でまた明日の意味です。発音やっぱりむずい。)

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