2019年9月6日放送 漂泊のピアニスト。ヴァレリー・アファナシエフ(2)『もののあはれを弾く』

昨日からの続きです。


速度を増す時代の流れから、身を切り離す必要があると感じた。

亡命に際して、恩師に言えなかった事、そして死の淵に立ち会えなかったことが今でも影を落としています。亡命の計画は当局に妨害されないよう秘密裏に行う必要があり、親しい友人にも打ち明けることができず、心の中で別れを告げる日が続いた。

両親を失ったときに亡命の決心を固めた。 友人たちとももう二度と会うことはないと。その一週間後、ソビエトを離れた。

「ソビエトでは国家が芸術を管理していました。西側では商業主義が芸術を支配していたのです。モスクワでは地獄に住んでいると思いました。そして西側は天国だと信じていました。しかし、この街に長く住んでそんな幻想は捨てました。芸術の都パリは天国なんかではありません。」

パリのモンマルトル。かつてはゴッホやピカソがいた芸術家の聖地。今は観光の町です。速度を増す時代の流れから、身を切り離す必要があると感じていました。

「今の時代は天才を必要としていません。 みんながちょっと注目できるシンボル的なスターで十分なのです。その舞台を見て気晴らしをする。芸術がそんな存在に成り下がっているのです。今の時代には偉大な芸術を生み出す力はないでしょう。でも私は 自分が正しい道を歩んでいくと信じています。人生を過去の偉大な芸術に捧げることをしている。それは不滅の価値を見出すのです。人から私は人生の敗北者に見えるでしょう。でも自分の中では美に全てを捧げる勝者なのです。」

ロベルト・シューマンの音楽劇を創作。

家にこもり過去の偉大な作曲家と対話する日々が始まりました。古い資料を読み込みながら作曲家の創作の原点に遡っていきます。

その体験を中で浮かび上がったのがピアニストでもあり文筆家でもある19世紀ロマン派のロベルト・シューマン。シューマンは天才ピアニストとして活躍していた最中に腕を痛め、やがて狂気に苛まれながら死んでいきました。シューマンの『クライスレリアーナ』に秘められた狂気に新たな表現を加えると取り組みます。

全身全霊で芸術と向き合いたい。脚本を書いて自らが役者となった音楽劇を作りました。

「何もしたくない日が続いて、ある日森を散歩していたときにひどい雨が降ってきたので、慌てて家に駆け込みました。その時突然クライスレリアーナを劇にしたいと思いついたのです。机に座ってパソコンに電源を入れ、夜中まで書きました。それから寝床に入ったのですが、興奮して眠ることはできませんでした。そこで結局また机に座ってパソコンに向かったのです。さらに書き続け、ついに朝の6時に書き上げたのです。もうぐったりでした。」

主人公は手を痛めたシューマンであり、アファナシエフ自身の内面も投影されている。主人公は音楽の世界に取り憑かれ、狂気の世界に入っていく。

「私は亡命し続けます。初めはソビエトからの政治的亡命。そしてここパリでは美学の亡命者であり、心の亡命者。」

言葉の説明に意味はない。このソナタを聞くだけで十分。

模索する中で何度も訪れる城があります。ノワールの森の中にそびえるシャンボール城。16世紀に建てられた建物です。ここを訪れるたびにインスピレーションを受けるのが二重螺旋階段。

設計したのは イタリアルネサンスの巨人レオナルドダヴィンチと言われています。

「階段の下りると上るのが出会うことのない謎めいた構造です。この螺旋階段に私は芸術家の使命という観点から惹きつけられているのです。重要なのは過去に回帰することです。人生を進むために何度も過去に回帰します。この螺旋階段にそれが象徴されています。螺旋は過去を目指して回転し下降します。同時にこの螺旋は未来へ上昇します。未来への意志と過去へのノスタルジーとが混ざり合う本当の芸術の姿です。」

シューベルト最後の作品、ピアノソナタ第21番変ロ長調。シューベルトは31歳でこの世を去る前に遺作となるピアノソナタを残した。

「この曲には静寂が響き渡っています。言葉の説明に意味はありません。このソナタを聞くだけで十分なのです。シューベルトの音楽には光の世界と地獄が共存しています。それは音楽を聞けば分かると思います 。穏やかなメロディの後に破壊が訪れます。『間』や『もののあはれ』ということは私は日本の本で知りましたが、それは私自身の中にもともとあったものでもあるのです。もののあはれの感覚がこのその曲から強く感じられるのです。」

「私は孤独な人生を歩んでいます。世の中から離れて自分の中に引きこもることがあります。人ごみから離れないと生きた心地がしない人の気持ちはよくわかります。」

一つの曲を弾き始め、そして弾き終えるまで、少したりともその静寂を途切れさせてはならない。

徳川美術館に行き、源氏物語の絵巻を見るアファナシエフさん。若い頃に源氏物語で感じた儚さを絵巻で見たかったようです。

源氏物語は、様々な出会いや別れを通してもののあはれを表現してしまいます。年を重ねる度にこの物語の共感が深まるといいます。

「私は友人と別れ、祖国を失いました。西側に亡命してからも、たくさんいろんなものを失ってきたのです。私たちはどんな幸せもその中にたくさんの別れや喪失を含んでいるのです。人生には幸せと不幸せが混ざり合っている。そしてそれらのことを源氏物語は極めて美しい形で表現しているのです。」

そしてアファナシエフさんのために夕顔を主役にした能が披露されます。

夕顔を主人公とする半蔀(はじとみ)。夕顔は光源氏が行きずりにふと見初めたうら若き女性。身分を隠したまま逢瀬を重ね、二人は激しい恋に落ちる。しかし夕顔は嫉妬に狂った女(六条御息所)の亡霊に襲われあっけなく死んでしまう。そして夕顔の亡霊が蘇る。光源氏との恋の思い出を語り、美しく儚く舞う。失われた過去がよみがえる夢幻能の世界。

夕顔を舞った金剛流26代宗家金剛永謹(こんごうひさのり)さん。クラシック音楽の愛好家でもあります。

アファナシエフさん
「私が能に出会ったのは16歳の時。モスクワに住んでた時です。友達の一人が私にレコードをかけてくれたんです。そして初めて能の音楽を聴いたのです。とても驚きました。そして思ったのはこの音楽に一体どんな動きが振り付けされているのかということ。能の音楽は私達ヨーロッパの音楽とはあまりにもかけ離れていたからです。ヨーロッパの劇のような自然な演劇が行われているとはとても思えませんでした。なぜならその刺激は奇怪でありながら、どこか引き込まれるような魅力があったんです。」

金剛さん
「禅の中で無というのがあるんですが、無いことで全てはあるんだという。何もないところに全ての音があるとか、それが能の話の単純さでありながら、すごく多くのものを含んでいる世界ですね。クラシック音楽を聴いていて感じていたことは、無のところに意味がある。無の緊張感、絶え間ない緊張を大事にして音を出していくんですけれど、クラシック音楽の音のない部分の緊張感というのは、能の音のない緊張感と同じだった感覚です。」

アファナシエフさん
「全く同感です。大事なのは音楽は静寂に基づいているということ。もし静寂が聞こえなければ音楽は存在しないでしょう。静寂とは音楽が生まれ、そして消え行くところです。そのことは皆知っていますし、言うのは簡単です。しかしそれを演奏で表現するのは極めて難しいことなんです。というのも一つの曲を弾き始め、そして弾き終えるまで、少したりともその静寂を途切れさせてはならないからです。フルオーケストラからフォルテシモが出ている時でさえ静寂に耳を傾けるべきなんです。」

そして京都・岩倉にある実相院でシューベルトのピアノソナタ第21番変ロ長調を演奏。

そして放送終了。


60年代のロシアで芸術が統制された時代に日本の古典文学に出会い、そこで『もののあはれ』を感じたというのはやっぱりアファナシエフさん自身がすごく繊細な受け皿を持っているということですよね。すごい。
私、高校の授業で源氏物語も勉強したけど、国語の先生の六条御息所への気持ちの入れようが半端なくて『もののあはれ』を感じることもなく、ただただ引いてた。ちなみに私は桐壺派です。

子供といると、静寂があまり感じられない生活を送らざるをえないのですが、これからは子供が牛乳こぼしたときも、入浴剤入れすぎたときも、積み木でドミノ倒しやってるときも静寂を感じ取るようにしたい。

昔、国語の授業で谷崎潤一郎さんの『陰翳礼讃』を習ったときの感覚に似ていて、陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ映える芸術を作り上げるみたいな。高校生ながら「なるほど!光ではなくそっちね!」とめちゃくちゃ目からウロコ体験をしたのを思い出しました。普段、考えることもない静寂にすごく浸れた放送でした。静寂礼讃。

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