2019年4月30日放送。私は左手のピアニスト(1) 第1回 左手のピアノ国際コンクール『音楽大学に入った直後、局所性ジストニアと診断。瀬川泰代さん』

2019年2019年4月30日にBS1で放送されていた『私は左手のピアニスト。希望の響き。世界初のコンクール』
ゴールデンウィーク真っ只中で、録画したものをやっと見ました。3ヶ月遅れで。

これもまた素晴らしいドキュメントで。コンクールのドキュメントシリーズ、毎週放送してほしいぐらい。

全8回です。それでは行ってみましょう。ヒィーウィーゴー!

希望に満ちた未来に向かっていたピアニスト。右手の親指一本のせいで絶望の淵にいたピアニスト。そんな彼らが出会ったのは、左手のために書かれた曲でした。

「左手だからこそ、奏でられる音楽がある」

そんな左手のピアニスト達が人生をかけて臨んだコンクールのドキュメンタリーです。

2018年11月大阪府箕面市。
左手のピアノ国際コンクールは3日間にわたって開かれました。場所は大阪府箕面市立メイプルホール。

コンクールはプロフェッショナル部門とアマチュア部門に分かれて競い合います。
初日は音楽の専門教育を受けた人たちが対象となるプロフェッショナル部門の予選。2日目はアマチュア部門。最終日はプロ部門の本選が行われます。

国の内外から49人のピアニストがエントリー。審査にあたるのは音楽大学の教授などピアニスト4人です。

ピアノの歴史はおよそ300年。史上初の左手のピアニストによるコンクールです。出場者は左手のピアノ曲と出会うことで、その奥深く新しい世界に魅せられてきました。

両手の場合は主に右手がメロディ、左手が伴奏を行います。
しかし左手のピアニスト達は、左手の親指でメロディ、残りの指で伴奏するという高度なテクニックが必要とされます。

また左手の曲は音数が少ないため、正確で素早いタッチも求められます。

演奏直前の練習に向かったのは瀬川泰代(せがわ やすよ)さん30歳。
ピアニストを目指していた12年前に指が動く思うように動かなくなる局所性ジストニアを発症。
以来、左手だけで演奏を続けてきました。この大会には特別な思いを抱いています。

瀬川さん
「作曲家が左手の曲を書いてなければ、ジストニアになったときに音楽を止めていたと思う。左手の曲だけをみんなが演奏して、それを聞くことができるというのは今までなかったことですし。あっという間かもしれないけれども、すごい大切な日だと感じます。」

瀬川さんは、6年前からオーストリアに留学中。音楽の本場で左手のピアニストとして道を切り開こうと努力を重ねてきました。これまでの集大成として、今回のコンクールに懸けています。

さぁ瀬川さんの出番です。曲は
ブルーメンフェルト作曲『練習曲 変イ長調 作品36』
瀬川さんはこの作品を希望の曲と捉え、自らも勇気づけられています。

瀬川さんが患った局所性ジストニアは、音楽家の50人に1人が発症すると言われています。指など体の一部を長期間にわたって正確に繰り返し動かすことで、脳が誤作動を起こし、無意識のうちに筋肉がこわばったり、意図しない動きをしたりする病気です。

日常生活では大きな問題がないものの、ピアノを弾くと指が丸まったり、勝手に曲がったりします。確立した治療法は見つかっておらず、ピアニストにとって深刻な病気です。

瀬川さんは音楽大学に入った直後、局所性ジストニアと診断されました。

瀬川さん
「目の前が真っ暗になったし、大好きなピアノが弾けなくなる。それは本当に辛いことで、2年ぐらい誰にも話せなかったんです。親友には話したけど、他の人には話すことができなくて。なぜ話せなかったというと、同情されるのが嫌だったから。それに音大に通っていたので、学校に行くとピアノの音が聞こえてくる。それが本当に辛くて。」

一人だけピアノの前で何もできない日々が続きました。そんなある日、左手のピアノ曲を耳にし、衝撃を受けました。

瀬川さん
「その音の響きが自分の心の中に入って。 スッて入るんじゃなくて、心にグサって突き刺さるような。本当に魂のような音楽で心に響きました。5本の指でもこんなに人を感動させることができるんだって。初めてそこで実感したんです。」

左手の曲が深い感動を呼ぶには理由があります。

名曲の1つであるバッハの作品をブラームスが編曲した『シャコンヌ』

恩師シューマンの妻でピアニストであるクララが右手を痛めた時、
「何とか励ましたい」
とブラームスがクララに送ったとされています。

左手だけでもピアノを演奏することはできる。左手の曲には作曲家の祈りが込められています。左手の曲が花開いたのは、皮肉にも第1次世界対戦の時。そこには戦場で右腕を失ったあるピアニストの不屈の情熱がありました。

オーストリア人のパウル・ウィトゲンシュタイン(1887 – 1961)。
戦前からピアニストとして活躍していましたが、戦争で右腕を失い、捕虜となったシベリアの収容所では木箱をピアノがわりに、左手の凍える指を何時間も打ち付けていたと言われてます。

そして戦争が終わるとラベルやプロコフィエフをはじめ、著名な作曲家たちに左手の曲を次々と依頼しました。

ラベルも戦争に行き、その悲惨さを目の当たりにした一人。左手だけの依頼は作曲家魂に火を点け、可能性を追求する左手のためのピアノ協奏曲を書き上げました。

ウィトゲンシュタインはこの難曲に挑戦し、左手のピアニストとして成功を収めます。その一方で3000を超えると言われる左手のピアノ曲は弾く人が少ないため、埋もれて行きました。


さぁ今日はここまで。

明日に続きます。

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