科挙を受けるための学校。そしていよいよ科挙の本試験。なんと日本人で科挙に合格した人が過去に1人だけいた!

さぁ今日は科挙になるための学校生活について。

というか今は科挙なんて実施してないし、まったく役に立たない情報なんですけどね…。需要があるかはさておいて、ネタがないので許してください。


学校が始まって、チェロの練習時間が少なくなって「30分でもいいからチェロを弾こう」と声をかけている毎日です。


さて、今日は科挙になるための学校に入学してからのお話。


まず入学してから定期学力試験である歳試。

歳試とは、国立学校に入学した生員が受験する試験であり、3年に一度行われる定期学力試験のこと。成績優秀者の場合は地方官などに任命されることもありましたが、成績不良の場合には停学もしくは生員たる資格を剥奪され、退学処分になることも。


定期試験もあんのねん…。それはいいとして、成績が悪かったら退学させられるのねん…。学校受かったから燃え尽きたみたいな子とか、ここまでの段階で頭がいっぱいいっぱいだった子もいたんでしょうね。


そして科挙本試験のための予備試験、科試。

科試はこれに対して、科挙本試験の郷試を受けるための予備試験であり、受験者の数を絞ることが目的。合格すると郷試の受験資格が与えられ、同時に生員から挙子と呼ばれるようになります。合格人数は次の郷試の会場である貢院(こういん)の余裕に合わせて決定され、だいたい郷試合格者の100倍程度の生員が合格しました。


ここからが科挙の本試験、郷試。そして試験前の入念な荷物検査。

郷試は科挙の本試験の第一の関門となる試験であり、その試験倍率は80倍から100倍程度。

郷試は3年に1度、子年、卯年、午年、酉年毎に実施されることが法令で定められていました。門前でまず人員点呼が行われ、各学校の教官が立ち会って本人に間違いないことを確認します。


試験場で3日3晩を過ごさなければならないので、受験生は硯(すずり)や墨、筆、水さしのような文房具のほかに、土鍋・食料品・せんべい蒲団・入り口にかけるカーテンまで持ち込む大荷物。

点呼がすむと、今度は身体検査。4人の兵卒が同時に挙子の着衣を上から下までなでまわし、荷物を開けさせて内容を調べます。書物はもちろん、文字を書き込んだ紙片は持ち込み厳禁で、もしそれを発見した兵卒があれば、銀3両を賞に与えられるので、取調べは厳重をきわめ、饅頭を割って中のアンコまで調べたそうです。

豆本といわれる小さなカンニングペーパーや、下着に文字を書き込む受験生もいました。もちろん不正行為が発覚した場合には、死刑が課されたこともあったそうです。

自炊して、雨から答案用紙を必死に守りながらの試験。

それが終わるとようやく受験生は試験場に入り、自分の独房に入室。1日がかりの入場が終わり、全部それぞれ自分の号舎に落ち着くと、大門に錠が降ろされ、この時以後はどんなことがあっても試験の終了するまでこの門の扉は開かれません。

翌朝から試験開始。係員がまわってきて、答案用紙と問題用紙を配布します。この日の出題は四書題3、詩題1である。挙子たちは、これから頭を抱え、知恵を絞って答案作成に取りかかります。時間は十分に、翌10日の夕刻まで。


これは絶対に難しい問題よね…。長時間で少ない問題数って絶対に難しいやつよね。私なんかが100回生まれ変わっても解けないやつだわ。


まず、草稿紙の上で十分に案を練り「これでオッケー!」となって清書に取りかかります。お腹が空けば持参の饅頭を食い、時間に余裕のあるものは土鍋でご飯を炊きます。

雨が降ったら大変。戸のない独房の中に容赦なく吹きつけるので、命よりも大切な答案を濡らすまいと、必死になって防ぎます。

疲れればぜんべい蒲団をひっぱりだしてひと休みすることもできるけど、隣の独房に灯がついていると、自分一人遅れてはなるまいと、再び起きて答案用紙に向かってしまう。

↑私も美大受験の時に、隣の人が筆洗で筆をカンカン洗って音を出して威嚇してきたわ。科挙の試験にもいたのかな。全然わかんないけど、解いてるフリの人とか、とりあえず灯りだけつけてる人。多分いたと思う。


そして学校試と違ってお弁当なし!8月だし腐りやすいね…。自分で自炊しながら試験ですよ。


次は会試。

郷試に合格した挙人は、(全国で約1万名)翌年、都で行われる省試(会試)を受験。身(人格)、言(言葉遣いや討論能力)、書(文字や執筆能力)、判(法律の知識)の4種類の試験。

これも独房で受験し、厳密な採点が行われます。合格者は3%程度(約300人)だったといいます。(この時点で3000人の郷試受験に対して1人)会試の主席合格者は「会元」と呼ばれました。


最後は皇帝自らが行う殿試。

皇帝(天子)自らが試験官となって最終試験を行ない、恩を売ってその合格者すべてを弟子とし、官僚の大親分になろうとした、これが殿試です。本格的な「殿試」は開宝8年(975年)、
宋の太祖が、自分が試験官となる試験を最後に付け加え、合格者は最終的に、すべて天子の弟子という形にしました。

1057年から不合格者は出さず、もっぱら順位を決めるための試験となりました。

殿試では、少なくとも1000字を書く必要があり、答案の書き方も形式が決まっていたといいます。


成績第一の者を状元(合格者名簿(状)の最初(元)に記載されることから「状元」)、第二を榜眼(状元の眼のごとく)、第三を探花(祝宴を飾る花(牡丹)を探す)といい、この三者を第一甲とし進士と呼び、

次の第二甲若干名を進士出身、残りの第三甲に同進士出身という学位を与えました。これらを科甲といい順番に官吏に登用され、超エリート官僚への道が開けました。


ちなみに各試験でトップの者を郷試では“解元”、会試では“会元”、そして殿試では“状元”と呼びました。この3つをトップ合格した者は三元と呼ばれ、麻雀の“大三元”はここに由来します。

そうなのね。<ハク><ハツ><チュン>のあれですね。


はい。これで終了。おわりおわり。(←あまりの試験の多さに後半適当ですみません)


5歳にして試験は開始され、学校試(童試)→郷試→会試→殿試の段階を経てようやく合格。

その合格倍率は3000倍とも言われ、1300年間で596回の試験があり、平均合格者の年齢は36歳、最高では76歳の合格者もいて、世界一難関な官僚登用試験でした。

76歳で受かって、皇帝も殿試のときにビックリしたでしょうね。そして76歳まで受け続けるその執念と努力が凄い。


科挙に合格した唯一の日本人。

ちなみにこの難関といわれる科挙に合格した日本人が1人いまして、その人とは阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698~770)。

阿倍仲麻呂は19歳の時に遣唐留学生として第8次遣唐使船で当時の唐の国に派遣されます。

当時の遣唐使船での渡航は命がけの航海で、無事、唐にわたっても、すんなり帰国出来るかどうかはわかりません。


仲麻呂、皇帝のお気に入りになってしまい、なかなか帰国できず。

唐に渡った阿倍仲麻呂は、極めて難しいと言われていた科挙の試験に優秀な成績で合格し、官僚となって、玄宗皇帝(楊貴妃を愛したことでも有名)に仕えました。

次の遣唐使船がきたのはなんと17年後の仲麻呂36歳のとき。この船の帰国船で帰る予定でしたが、学才を惜しんだ玄宗皇帝から帰国を許されませんでした。

さらに20年たって、ようやく55歳になったときに帰国することを許されました。その時に嬉しさのあまり読んだ歌が小倉百人一首にでてくるこの歌。


「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

(広い空を振り仰いで眺めると、美しい月が出ているが、あの月はきっと故郷である春日の三笠の山に出た月と同じ月だろう。(ああ、本当に恋しいことだなあ))


しかし帰りの船で悲劇が仲麻呂を襲いました。

帰国船が暴風雨のため、ベトナムに流されたのです。同じ船団の別の船に乗った鑑真和上や吉備真備らは困難を極めながらも種子島に漂着し、日本に到着しています。

阿倍仲麻呂は、陸路で2年かけてベトナムから都の長安に帰りつき、72歳で死ぬまで、唐の高級官僚、国立図書館長やベトナム総督としての生涯を送りました。


(引用元、参考:中国の試験地獄、法隆寺物語(80)~阿倍仲麻呂と吉備真備、


↑調べていて国語の先生が授業で阿倍仲麻呂のエピソードを教えてくれたのを思い出しました。


あまりにも過酷で試験中に発狂したり、亡くなる人もいた中国の地獄試験、科挙。


この話を旦那さんにしたら「僕だったら科挙なんて余裕よゆー」と答えました。

いやいや、

字が汚いし(楽譜の書き込みがいつも読めなくて解読するのが大変)、

「余裕よゆー」みたいな奢った発言するような人は落とされると思うよ…。


やっと終わったよ…。

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