キングダムからの、宦官からの、科挙。科挙の学校入学のための願書と採点者。

今日もチェロの話は出てきません。すみません。


さてキングダムを久しぶりに読んだら、世界史で習った中国の宦官があまりにも気になりすぎて、先日宦官の本についての感想を書きました。


世界史で習った中国のことで、衝撃を受けたのが宦官。

そして次に科挙です。

科挙に
なんで私がここまで中国に凝っているかというと、キングダムを久しぶりに見て&読んで面白いなぁと思ったのと、高校時代の同級生に中国大好きっ子がいたんですよ。


ある日、集めた教材費が盗まれて、けっこうな金額だったのでみんなが驚いてる中、

その子は


「えっ!そのお金があったら中国に3回行ける!」


と叫んで教室内が大爆笑になったんです。


その子はお昼にパンを買いに行く時も、

「このパンを1個我慢して、それを何日か続けたら中国に行ける資金が貯まる。」

とか、

その子は新聞係だったので、ある日の学級新聞の特集が『水滸伝』だったり…。

とにかく頭の中が中国のことでいっぱい。


キングダムを読んで、その子のことを思い出しだので、「あの子がドハマリしていた中国ってどんな国なんだろう?」と知りたかったことを消化せねばと思った次第です。


そして宦官の次に知りたかった科挙。

先日、図書館でこの本を借りてきました↓
科挙 中国の試験地獄宮崎 市定先生の『科挙 中国の試験地獄』


これね、まさに地獄。

あまりにもつらくて、読んでる私も頭が痛くなってきて、後半は地獄でした。


まずは科挙について簡単におさらい。


科挙の時代によっての移り変わり

科挙の創設は、隋の文帝統治期、587年といわれます。

「科挙」という名前の由来ですが、かつて中国では官吏を登用することを「選挙」と言いました。「選」は「選ぶ」、「挙」は「推薦する」という意味です。その官吏登用試験にはいろいろな科目があるので、「科目による選挙」すなわち「科挙」という言葉が、唐代にできたそうです。


科挙の試験内容は時代によって違います。


まずは

隋時代の科挙について。


隋以前、中国は地方の貴族・豪族が力を持っていて、皇帝とは言っても彼らに一目置かざるを得ない状況でした。この貴族の力を抑え込もうとして考え出されたのが科挙です。それまで地方の貴族・豪族が世襲していた地方の高官すべて中央政府が任命して派遣することに決めたのです。

毎年中央政府が受験希望者を全国から集めて試験を行い、いろいろな科目に合格した者を有資格者として秀才(しゅうさい)・明経(めいけい)・進士(しんし)などの名称を与え、必要に応じて各地方の官吏に任命するようになりました。


唐代の科挙について。


唐代の科挙には進士科(詩を作る能力を問う)と明経科(儒教の経典を暗記する能力を問う)がありましたが、合格後の出世面などで進士科が有利でした。

公平がモットーの科挙ですが、実はこの頃の科挙は試験の成績より、試験以前に行う有力高官への働きかけの方が重要だったと言われます。唐詩の代表的詩人、李白や杜甫も盛んに有力高官に近づき、自分の作品を贈呈しています。生涯不遇だった彼らの作品が残ったのはこのためだったという説があります。


李白と杜甫って漢詩の授業に出てきましたね。レジェンドオブ漢詩。

杜甫と言えば「國破れて 山河在り」の春望が有名。


科挙の最終試験では体格風貌・弁舌・字のうまさが問われました。顔がよくないと合格しなかったんそうです。


口の上手さと顔のよさってあーた。口の上手さはいいとしても顔のよさって、ひどいわ…。当時の流行顔が気になるし、顔なんて好みじゃん。


宋代の科挙について。


宋代に入ると科挙は公平で客観的な試験制度になっていきます。

科目は進士科のみ。試験は「解試」(本籍地で受験する試験)・「省試」(中央の礼部貢院で受験する試験)・「殿試」(皇帝の前で受験する試験)の3段階試験でした。

試験科目は経義(儒教経典の解釈)・詩賦(詩を作る)・論策(論文)の3科目。

また実際の試験現場はきわめて厳格で公平性が高まりました。官吏の身分も本人一代限りとされ、階層は固定化することなく流動的になっていきました。


元代の科挙について。


元を興したモンゴル人は科挙にまったく興味を持たなかったのですが、やがて彼らが中国化していくと、科挙は漢民族の強い希望を受け入れて小規模ながら復活していきます。ただし民族別に差別があり、モンゴル人・色目人(西域に住む少数民族)は漢人・南人(長江以南に住む漢族や少数民族)より優遇されていました。


元の時代の科挙ってどうだったんだろう?と疑問だったんですが、少しは実施していたんですね。元というかモンゴルの元国も興味のある1つです。


明代の科挙について。


明代では学校と科挙を併用する政策を行いました。学校でしっかり教育した後、優秀な学生を科挙によって選抜しようという政策ですが、後にこの政策は骨抜きにされ学校とは名ばかり、単に科挙の前の試験をするところに成ってしまい結局最初から最後まで試験だけという制度になっていきました。


清代の科挙について。


清代もまた異民族による王朝でしたが、元に比べると漢民族の文化は尊重され、科挙もまた明代のシステムが踏襲されました。ただ科挙の弊害や不正をなくそうと頑張るあまり、試験をさらに重ねることになって、負担だけが増し効果を生むことができないうちにヨーロッパ文明の荒波を受けることになりました。儒教経典の丸暗記や詩文を作る能力だけでは西洋文明に太刀打ちできないことが明らかになって、科挙は中国から退場を余儀なくされました。

引用元:中国の歴史より

とまぁこんな感じです。


宮崎 市定先生の本で主に書かれているのは、科挙制度が整備された宋時代の内容が中心です。

科挙の競争は生まれる前から始まる!

まずは生まれる前から。

当時は女の子は生んだ子の数に入らない考えだったので、まず男の子が生まれることを願う。


妊娠が発覚すると、胎教開始。座り方や、寝方、食べ物の種類、不愉快な色は見ない、詩経を読んでもらって聞く、などなど。

不愉快な色って何だろう?ゴロ寝しながら、おせんべい食べて、そのあとアイスを食べて、みたいなことはできなかったみたいです。


そしていざ出産!


男の子が生まれると一家をあげてバンザイ!

女の子が生まれるとガッカリ…。

551の豚まんのCM並みのテンションの違い。女の子ってわかったとたんにシーン…。悲しいやん。


そして男の子が生まれたときには破魔弓で天地と東西南北の6方向に向かって矢を放つ。

たぶんお父ちゃんが放つのかな?

「ヒャッホーウ!イェーイ!男だぜ!」みたいなテンションでバンバン放ったんでしょう。

「母さん、もっと!どんどん矢を持ってきて!」って調子に乗って5周ぐらい放ったお父ちゃんもいたことでしょう。


そして時は過ぎ、3歳頃になると家庭教育開始。

韻文250句、1000字を少しずつ暗記させる。


物覚えがいい子だと、どんどん進んで、

まわりも「ちょっと、この子天才じゃない!?」みたいな感じになり、そういう子は特別に『童科』という子供版科挙試験を受けて、合格すると童子出身という肩書がもらえたそうです。

しかし童子出身者は早熟タイプが多く、大成せずに終わるものが多かったので、後半はその弊害に気付いて廃れたそう。

よくありますよね。幼児時代にばんばん暗記する子。暗記してその内容をさらに掘り下げる子は問題ないんですが、暗記だけだとたぶんダメなんでしょう。とてつもない暗記力だとまた話は別ですが、頭はちゃんと思考しないと大人になったときに通じませんよってことですね。


これ以降は童科は廃止され、それにより一般的には5~6歳から勉強開始。

8歳以前は文字を憶え、8歳から『論語』『孟子(もうし)』など儒教の経典を読みます。15歳頃までに計57万字を徹底暗記しなければなりません。

科挙になるためにはまず国立学校の入試から。願書の書き方と試験の持ち物。

そしてまずは科挙を受けようとするものは必ずどこか国立学校の生員(生徒)でなければならなかったので、まずその学校に入るための入学試験。これが学校試(童試)と呼ばれるものであり、3年に一回、旧暦2月に行われました。


まずは応募資格について。父祖3代の間に賤しい職業(娼館、妓楼などの経営)に従事したものでないこと。そのために出願書には保証人を立てて、3代の身分が潔白である証明書が必要。

本人の父母、祖父母の死後1年あるいは3年間の喪中でないこと。これは親に対して孝行をつくすということを重んじる習慣から。

それ以外は特に制限なし。年齢制限もなし。


そして科挙の願書。

↑のいずれにも該当しないことを明記し、まだ戸籍も写真もない時代なので、年齢や、背丈の高低、顔の色、ヒゲがあるかないか。

ん?ヒゲがあるかないかの項目?


どういうことかというと、年齢が若いのにヒゲがあると書くと願書の受理を断られることがあったそうです。

えっ?小6で声変わり&ヒゲが生えてきた同級生のKくんはムリじゃん。受理されないじゃん…。


そもそも学校試は本来『童試』と呼ばれ、14歳以前のものを対象に行う試験。なので比較的簡単な問題を出し、採点もちょっと甘め。

ところがそれ以上の年齢(15歳以上。老童生と呼ばれる)が来ると、難題を出して戸惑わせたり、からい採点をつける待遇。

それだと大変だってことで、願書で年齢を偽り、40歳50歳になっても14歳と書き込んだそうです。で受験当日はヒゲをそって集合。

ほとんどが年齢を偽ってるけど証明する戸籍もないし、だんだん「ヒゲさえなければいい」みたいな基準になったそうです。顔にどんなにシワが寄っていても見逃してくれたらしい。

あんな厳正な科挙の試験において、ここだけコント。


そして試験当日の持ち物について。

なんか学校のプリントみたいになってきたぞ。

平たく軽く出来ている硯、上等な墨、筆、弁当。


そうですよ。当時は鉛筆やシャーペンなんてないから。めっちゃめんどいやん。まず墨をするところからよ。うちの子が受けたら試験中に筆を落として、あわてて硯も落としてジ・エンドだわ…。

入学試験の回数が多すぎる

学校試は3つの段階に分かれています。

まず第一が県で行なわれる県試。


県試では、まず最初の問題は四書から出る。たとえば、『論語』の本文にある「君子に三つの畏(おそ)れがある」というのが問題に出ると、その答えには「天命をおそれ、大人をおそれ、聖人の言をおそれる」という下文を引用し、それに朱子の意見や自分の解釈を加えて1つの文章をつくる。

出題の後、1時間ほどすると、係員がまわってきて、答案が書けた所までのあとに印判をおす。これは答案作成の速度を知るためで、この1時間の間にもし1行も書けず、最初の所へ印をおされると、そのあとの答案がいかによくできていても、採点の際不利となる。

第二の問題は四書からの問題と題を示し韻を指定して詩を作らせるという問題と2問出る。県試では入学定員(4名~25名)の約4倍ほどを採用しておいてその後の2回の試験で絞り、ちょうど入学定員の数に一致させる。

引用元:中国の試験地獄


↑は1週間、独房に閉じこめられたまま試験を行います。この時点で頭が痛いんすけど…。

もちろん当時は照明設備もないし、ロウソクも禁止だったので、あたりが暗くなって字が書けなくなると、未完成でも提出して教室から強制退場。試験後の受験者が50人集まれば門を開けて退場。

試験も大変だけど、採点も大変

さぁここから採点。

試験終了後、3~4日間は知県が全責任を持って昼夜構わず答案審査。私設秘書も付近の私立校の先生もばんばん雇ってガンガン採点。

採点は、厳正を極め、受験生を特定されないように答案をわざわざ書写して、筆跡を消し、それを採点する念の入れようだったといいます。

読んでて驚いたのがここ。採点する方もめちゃくちゃ大変。答えを写す作業なんてめんどくさすぎる。


もし答案の中に多数の同一の文章が書かれていた場合、禁止されている模範解答集でニワカ勉強したとみなされ、全部落第。

そして正解していても、字が汚いと採点すらしてもらえない。


替え玉も受験もあったけど、密告や後の筆跡照合で発覚したら重い罰が課されたそう。


そして合格発表の方法。

大きな紙に丸く輪を作って、時計の文字盤でいう12時の場所に第1番の名前を記入。そして左回りに名前を成績順で書く。それを数枚並べて門のところへバーンと貼り出す。


これは「試験官は公平な採点をしたぞ」という意味もあって、もし郵便のような本人通知だと不正が行われる可能性があったからだそうです。


そしてこれを繰り返すこと4回。これで第一の関門である県試が終了。

さらに府試・院試、さらに今一度学力をためすための歳試が行なわれ、「童生」は晴れて国立学校への入学を許可され、「生員」となります。


奥さん知ってました?この段階でまだ科挙になるための学校に入学しただけですよ。気が遠くなる…。


科挙の本試験まで一気に書こうかと思ったけど、書いてて頭が痛くなったので、科挙の受験資格を得るための学校生活と本試験についてはまた明日。


文章をまとめ終わった時にちょうどユニクロの通販が届いて、箱にこんな言葉が↓
ユニクロ ドラえもんのダンボール箱
最近、更新をサボりがちだから積み重ねないとね…。ありがとう、ドラえもん。


内容をまとめるだけでも地獄です。

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