1807年生まれ。世界で初めてチェロにエンドピンを付けた人。セルヴェ(Adrien-François Servais)のチェロ・エチュード教本
《最終更新日:2019/09/09》
「しゃもじにごはんがくっついてイヤだわ。そうだ!しゃもじをブツブツにしたら、ごはんがくっつかなるんじゃない?」「拭きそうじって大変だわぁ。そうだ!スリッパにモップをつけたら、料理をしながら拭き掃除ができるんじゃない?」
「お腹が出ていて、足でチェロ抱えるの大変だなぁ。まわりのチェロ仲間も足を痛めてる人が多いしなぁ…。そうだ!チェロに支える棒をつけたら、もうちょっと弾きやすくなるかも!」
そうです。セルヴェはチェロにエンドピンを初めてつけた人。セルヴェ自身がとても大柄でお腹が出ていたので、他のチェリストよりも足で支えることが大変でした。そのためエンドピンをつけるというアイデアを思いついたのです。
さてそのセルヴェ。一体どんな人物だったのでしょうか。
アドリアン・フランソワ・セルヴェ(Adrien-François Servais)は1807年6月6日、ベルギーのブリュッセル近くのハレで生まれたベルギー人。
1807年といえば、アメリカ人のフルトンがハドソン川にて蒸気船の航行に成功しています。近代化の波が間もなく押し寄せてきますよ。ちなみにテニスのウィンブルドン前哨戦として開かれるハレ大会はドイツのハレで、まったく違う場所です。
さて話をセルヴェに戻します。
この年代になると写真で登場です。たしかにお腹まわりが、ねぇ…?
父親は教会の音楽家でした。その父にヴァイオリンの手ほどきを受け、たちまち評判になります。
それを聞きつけた領主は、セルヴェの才能に目を留め、ブリュッセル劇場のコンサートマスターであるシャルル・デア・プランケン(1772-1849)のもとでヴァイオリンの指導をしてもらう機会を与えました。
ブリュッセルで、プラテル(1777-1835、ルイ・デュポールの弟子)の演奏を聞いたセルヴェは心の底から感動し、ヴァイオリンからチェロに転向する決心をします。そのとき、すでにセルヴェは30歳を過ぎていました。
その後、ブリュッセルの音楽院でプラテルのマスタークラスに入ったセルヴェは、あっという間にクラスメートたちを追い越し、わずか1年の修行ののち、コンクールで1位を獲得。
セルヴェはプラテルに助手として任命され、同時にオペラ劇場のオーケストラで弾くことに。そしてパリ、ロンドン、ペテルスブルグの演奏旅行に出かけ、輝かしい成功を収めたあと、故郷の町ハレで演奏会を開きました。
1841年、ポーランド、ロシア、スカンジナビアでの演奏旅行でも成功を収めたセルヴェは、翌1842年3月28日、オットー・ニコライの指揮のもとに行われたウィーン・フィルハーモニーの創立記念演奏会でソリストとして出演しています。
1848年、ベルギー王レオポルトから宮廷楽団の首席チェリストとして任命され、同時にブリュッセルの音楽院の教授としても活躍。
セルヴェの教え子の中には、エルネスト・ド・ムンクやジュール・ド・スヴェール(フーゴ・ベッカーの先生)、そしてアドルフ・フィッシャーがいます。
そして演奏のオファーが絶えなかったセルヴェ。何度もロシアへ演奏旅行へ出かけています。
当時のロシアの民衆は芸術に熱狂的で、ペテルスブルグの大劇場でグリンカのオペラでは、最初の幕間にサラサーテがベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲全曲を弾き、2回目の幕間にはメンデルスゾーンの協奏曲、そして最後の幕間でサラサーテ自身のレパートリーの曲を何曲も弾いたそうです。
幕間がサラサーテって贅沢すぎません?フレンドパークのウォールクラッシュのデモストレーションが為ちゃんじゃなくて内村航平さんみたいな。
そしてさらにアンコールがいくつも加わり、演奏会は深夜まで延々と続きました。そして恐ろしいのはその後。
人々はさらに夜中の1〜2時から夜会に出かけ、演奏家もそれに混じって朝7〜8時までおもてなしを受けるのです。
アンコールめちゃくちゃ弾いて深夜を過ぎて、さらにオールナイト。
案の定、演奏家のみんなは疲労困憊。
当時、ロシアでは音楽家や俳優などの芸術家を招待することは良い趣味であると見なされていて、さらに芸術家に贈り物をすること、それも一昨日よりも昨日よりもさらに豊かな贈り物をすることが良い趣味だと思われていました。
当時の交通状態を考えれば、広大な領域にわたるこのセルヴェの演奏旅行の数々が原因で、早い死が訪れたと言われています。
故郷に帰った彼は1866年11月26日、59歳で世を去ることになりました。
その5年後、故郷の町ハレでは8メートルもあるセルヴェの銅像を建てました。今もチェロを左側面に携えて、デデーンと建っています(なんせ8メートルですから)。
「その者、蒼き衣(銅だから)をまといて、ハレの地に降りたつべし。 失われしテクニックとの絆を結び、ついにチェリストの卵たちをエチュードの地に導かん。」
セルヴェは『チェロのパガニーニ』として成功を収めたチェリスト。
こんなエピソードが残っています。
面白いことをするので有名だったセルヴェ。
オーケストラより、自分のチェロの音がよく聞こえるようにと、チェロをかかえてオーケストラのひな段の上にかけ上っては聴衆を爆笑させたり、滑稽な顔をしてみせてどっと沸かせたりしていたようです。
そりゃ人気者になるよ。上手いし面白いし、呼んだら来てくれるし。生前のセルヴェは、どんな人に対してでも親愛の情をもって接し、物腰の柔かい人だったので、多くの人に愛されたそうです。
ライバルを突き放すテクニック、その大きくて力強い体は、めったにないほどの大きな手と相まって、ストラディバリの楽器から驚くほどの音量を引き出したと言います。
セルヴェ作曲で、最もよく知られているのは『スパの思い出』。これはシューベルトの『憧れのワルツ』に基づくファンタジーです。
セルヴェが生きていた当時はガット弦が主流で、それはとても柔らかく甘い音が出ます。しかし音量が小さいため、音を大きくするためには楽器を大きくする必要がありました。そのため大型のチェロが主流でした。
しかし17世紀末から、ガット弦に金属線を巻き付けて補強する方法が発明されました。これにより、低音が明瞭に出るようになり、音量も大きくなって、楽器の小型化が進みました。
ストラディバリも18世紀になってからは、今までより少し小型の楽器を作るようになりました。
そんなセルヴェはストラディバリウスの初期の大型チェロを持っていた一人(名称はそのまま“セルヴェ”)。当時、大型のチェロは修理して小型化することが一般的に行われていましたが、セルヴェは立派な体格をしていたため、大型楽器でも全く演奏上の困難を感じることがなく、大型チェロのままで使っていました。
“セルヴェ”は、そんなストラディバリウスによる大型チェロの最後の作品でした。
ちなみにセルヴェ。この楽器を失いかけたことが一度あります。ロシアの雪上をソリで移動中、どこかで荷台から落ちてしまったのです。
それを知ったセルヴェの落胆ぶりは激しく、誰も話しかけられないぐらい。
しかし翌日、ケースに入ったまま雪の中から見つかったそうです。ケースの皮ひもは狼にかじり取られていましたが、本体に損傷はありませんでした。
オオカミ
「なんだこれ?なにか入ってそうだぞ…。とりあえずこの皮ひもを引きちぎって!ハァ、ハァ…、このでかいやつ、なかなか開けられないなぁ。諦めて寒いから帰ろう…。」
そのときのオオカミ、ありがとう。野生感を全力で出さなくてありがとう(全部、妄想だけど)。
その後、セルヴェはこの名器をずっと大切にし、何人かの手を経て、最後の所有者がスミソニアン博物館に寄贈して、現在に至ります。当時の大型チェロそのままの姿で。
その音は、特に低音に深みがあり、かつ明瞭であって、他の楽器では得られないとされています。
ちなみにその“セルヴェ”を使用して録音されたアンナー・ビルスマ(オランダのチェロ奏者。バロック・チェロの名手。2019年7月25日にこの世を去りました)のバッハの無伴奏チェロ組曲第1番の録音が残っております。
アンナーは、
「この楽器を弾くとき、私は自分の技術不足より、想像力の乏しさを痛感する。」と言ったそうです。
さてここで問題です。
セルヴェがチェロを習い始めたころ、交通費をなるべく安くあげるために、チェロを背負って歩いて通ったそうです。ではその道のりは片道何キロだったでしょうか?
答えはスクロールの下↓
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“セルヴェ”で演奏したアンナーの無伴奏チェロ組曲。 答え。
なんと16キロ!往復すると32キロです。
当時のチェロケースなんて重たかったろうに…。毎週ブリュッセルまで歩いて通ったといいます。
アドリアン・フランソワ・セルヴェ(Adrien-François Servais)の年表
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1807.6.6
ベルギーのハレで生まれる。
父親は教会の音楽家。 -
父にヴァイオリンの手ほどきを受け、シャルル・デア・プランケンの指導を受けるように。
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プラテル(ルイ・デュポールの弟子)の演奏を聞いて感動し、ヴァイオリンからチェロへ転向。
すでにセルヴェは30歳を過ぎていました。 -
めきめきと頭角をあらわし、1年の修行後にコンクールで1位を獲得。
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プラテルに助手として任命され、オペラ劇場のオーケストラでも弾くことに。
パリ、ロンドン、ペテルスブルグの演奏旅行に出かけ、輝かしい成功を収めたあと、故郷の町ハレで演奏会を開く。 -
1842(35歳)
オットー・ニコライの指揮のもとに行われたウィーン・フィルハーモニーの創立記念演奏会でソリストとして出演。
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1848(41歳)
ベルギー王レオポルトから宮廷楽団の首席チェリストとして任命される。同時にブリュッセルの音楽院の教授としても活躍。
セルヴェの教え子の中には、エルネスト・ド・ムンクやジュール・ド・スヴェール(フーゴ・ベッカーの先生)、そしてアドルフ・フィッシャーがいる。 -
ロシアの演奏会に何回も招かれる。
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ロシア演奏会の帰りにいつの間にかソリからチェロが落下。無事に発見される。
無くした翌日、ケースに入ったまま雪の中から見つかる。ケースの皮ひもは狼にかじり取られていたが、本体に損傷はなかった。 -
1866.11.26
故郷のハレにてこの世を去る。
享年59歳。 -
1871
故郷のハレにて8メートルもあるセルヴェの銅像が建てられる。
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