1855年生まれ。まさか!あの名チェロ協奏曲に通じていた!? シュレーダー(Alwin Schroeder)のチェロ・エチュード教本

《最終更新日:2020/04/17》

おなじみシュレーダー。
日本で唯一のジュニアチェロコンクールである泉の森ジュニアチェロコンクールでも課題曲として取り上げられています。

さてこのシュレーダーの教本をつくったアルヴィン(アルウィンとも読むけど、ここではドイツ語よみで)・シュレーダー。どんな方だったのでしょうか。

アルヴィン・シュレーダー(Alwin Schroeder)は1855年6月15日生まれ。

シュレーダーが編集した「チェロのための170の基礎的練習曲(Foundation Studies for Violoncello)」は全3巻あります。

この練習曲集はアルヴィン・シュレーダーが書いたのではなく、ドッツァーやデュポール、メルクなど、チェロの名手たちが書いた練習曲の中から、アルヴィン・シュレーダーが170曲(実際には171曲)を選んで、指使い、ダイナミックスなどを書き加えたものです。
万葉集を編纂した大伴家持みたいなもんですね。

どうりでドッツァーの教本と同じエチュードが何曲かあるはずです。勝手にどっちかが載せたと疑惑を持っていました。失礼な勘違いにもほどがある。


さてシュレーダーが生まれた年、日本で何が起こっていたかというと、前年の1854年に浦賀にペリーがやってきて、同年の8月に日英和親条約を結び、12月には日露和親条約を結びました。
そしてシュレーダーが生まれた1855年、7月に長崎に海軍伝習所をつくり、10月には江戸で大地震がおこります。(安政大地震)。
同じ10月に日仏和親条約を結び、12月には日蘭和親条約を結びました。
このように日本が和親条約を結びまくって、開国派か鎖国派かでてんやわんやしてる年にシュレーダーは生まれています。ちなみに同年、パリで万国博覧会が開かれています。
そして翌年の1856年に吉田松陰が松下村塾を開き、同年の8月アメリカ総領事ハリスが下田に着任し、玉泉寺を領事館にしました。


さぁ話をシュレーダーに戻します。ここから家族がでてきて、登場人物名が全部シュレーダーになってしまうのでアルヴィンと呼びます。
ハルデンスレーベン(ベルリンとハノーファーの間あたり)で生まれたアルヴィン。ドイツ系アメリカ人です。

アルヴィン(アルウィン)・シュレーダー(Alwin Schroeder)右手の形、めっちゃいい!。脱力具合を子どもに見せたい。そしてなんか良さげなチェロ。

父は地元の音楽監督であるカール・シュレーダー(Carl Schroeder〈Karl SchröderI〉1816年 – 1890年または1823年 – 1889年)で、4人兄弟の末っ子でした。

長男のヘルマン・シュレーダー(Hermann Schroeder、1843-1909)は、ドイツのベルリンで作曲家兼バイオリンの教授に。
次男のカール・シュレーダーII世(Carl Schroeder、1848 – 1935)は、ライプツィヒ音楽院のチェロ教授になり、1881年にソンダースハウゼン王子のお抱え指揮者に任命され、三男のフランツ(Franz Schroeder、1855年以前生まれ?)はロシアのサンクトペテルブルクで指揮者として働いていました。

このようにドイツの音楽一家の末っ子として生まれたアルヴィン。
彼は父・カールからピアノのレッスン。長男のヘルマンからのバイオリンのレッスンを受けていました。
レッスン代が浮く!じゃなくて、身内に音楽家がいるっていいですよね。


アルヴィンは7歳から音楽の勉強をはじめ、ベルリンのバレンシュテットで音楽とピアノを学び、Ahnaにバイオリンを学び、Tappertに音楽理論を学びました。

アルヴィンが最初にプロとして知られるようになったのは、ビオラ奏者としてでした。
1866年、11歳の時に家族の弦楽四重奏団で父のために弾きはじめ、1872年に解散するまで幅広く演奏活動を行いました。
長兄と三兄がバイオリン。次兄がチェロ。となると、余っているのはビオラだけですよね。
おそらくですが、

「お前なんでもできるし、器用だからビオラよろしく。」と兄たちから言われたのでしょうか。

トランペット吹きたい!って吹奏楽部に入部した少し背の高い男子が
「ちょっとアンタ身長あるからコントラバスやってくんない?」
って先輩に言われるやつ。有無を言わせないやつ。


そうして、アルヴィンはベルリン交響楽団でもビオラ奏者として働いていました。1872年から1874年の間に、彼の次兄であるチェリストの次兄カールが、ベルリンとライプツィヒに移ります。アルヴィンは次兄カールが弾いているチェロに興味を持ちました。

「お兄さんの弾いているチェロをなんかいい音だなぁ…。ちょっとお兄さんのチェロを借りて、練習してみようか。」
という気持ちになり、独学でロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』中でのチェロのソロを練習しました。そして、

「カール兄さん、ちょっと聞いてよ」とおもむろに持ってきたのはチェロ。

「えっ?お前、俺のチェロで何する気?」

「ま、ま、いいから。」と言ってウィリアム・テル序曲を披露。

「ワォ!お前すごいじゃん!いつの間に練習してたの?短期間でこれだけ弾けたらすごいよ。本気でチェロの勉強してみたら?俺が教えるから。」

「本当?兄さん。じゃあやってみようかなぁ…」

なんてやり取りがあったかはわかりませんが、カール兄さんからチェロを手ほどきを受けることに。
そしてアルヴィン自身もチェロの魅力にとりつかれたのか、所属していたオーケストラの契約更新の時にビオラ奏者としてサインすることを拒否したというエピソードが。

アルヴィン
「最近、チェロにハマってんだ。ビオラよりもチェロを弾きたいんだけど。」

オケのマネージャー
「えっ?そうなの?知らなかった。はい、早くここにサインして。」

アルヴィン
「俺はチェロが弾きたいんだ!ビオラ奏者として、もう契約はしない!」

オケのマネージャー
「わかった。わかったから、こっちも時間ないから。早くサインちょうだい。」

アルヴィン
「だから!俺は!チェロを!」

オケのマネージャー
「よく見て。ほら、ここ。」

アルヴィン
「ん?セクションがビオラじゃなくて、チェ、チェロ!チェロ!オー!マイン!ゴットー!(ドイツ語だから)」

オケのマネージャー
「アレス・グーテ!(ドイツ語なんでね。おめでとうの意味です)素晴らしいチェリストさん。ようこそわがオーケストラへ。」

アルヴィン
「ダ、ダ、ダンケ…、シェーン…(涙ぐみながら)。」

なんてやり取りがあったのか定かではありませんが、新たにチェロセクションの一員として迎えられました。

アルヴィンはオーケストラのメンバーとして1875年12月にソロデビューをし、1877年から1880年には、ハンブルグで設立された新しいオーケストラのメンバーに。
そしてライプツィヒの大学でで教員としても働き、このときにライプチヒ出身のユリアス・クレンゲル(1859-1933)と教員生活を共にしています。そう!あのクレンゲルですよ!

チャイコフスキーのピアノトリオのライプチヒ公演に参加したチャイコフスキーは
「あの素晴らしいチェリストは、非常に基本に忠実で模範的だ」と評しました。 またカルテットの一員として活躍したアルヴィンは、コンサートでピアニストとしても演奏したそうです。

多才です。アルヴィン。

1891年ま​​でライプツィヒにいたアルヴィンは、地元のツアーでもチェロのソリストとして活躍しました。

1882年10月10日のコンサートでは、
「ライプツィヒのチェロの巨匠、アルヴィン氏は拍手喝采を受けました。美しい音色、素晴らしいテクニック、そしてとても上品な演奏」と評され、ロシア、ベルギー、オランダ、デンマークの演奏活動で成功を収めました。

そしてライプツィヒ音楽院でも、ドイツ国内だけではなく、スイス、イギリス、オーストラリア、そしてアメリカから来た生徒たちを教えました。
アルヴィンがライプツィヒ音楽院に勤めている時に「様々なチェリストによるエチュードを編集して出版してみては?」というのアイデアが浮かび、その後、そのアイデアを元にアメリカで『チェロのための170の基礎的練習曲』3巻として出版しました。

ライプツィヒ時代のアルヴィンの出版物の中には、『チェロ奏者のための左手技術の教本』とJ. S. Bachによる『6つのソロチェロスイート』があります。

その後、アメリカのボストン交響楽団の首席奏者になりました。
アルヴィンは、1891年から1903年までと1910年から1912年までの間、そして1918年から1925年までの間に在籍していました。

ニューヨークのミュージカルアート研究所(現在はあのジュリアード音楽院)の創立時の教員の一人でもあります。

ちなみにドヴォルザークはチェロ協奏曲をつくるときに、なんとアルヴィンから、技術面でのアドバイスを得たらしいです。まさかこんなところでチェロの名曲とつながっていたとは。そしてドヴォルザークのチェロ協奏曲、ボストンでの初演はアルヴィン(つまりシュレーダー)がソリストをつとめました。(ちなみに世界初演はロンドンにて、ソリストはレオ・スターン)

ところで「170の練習曲」には、C.Schröder という人の練習曲がたくさん載っていますが、これは次兄のカール・シュレーダーⅡ世のことです。
きっとアルヴィンは昔、カール兄さんにチェロの手ほどきをしてもらって、尊敬の念を込めて、多くの曲をこの練習曲集に収録したのでしょう。仲がいいって、いいもんですね。

そして1928年。73歳でボストンにて亡くなっています。
さぁそんなアルヴィン・シュレーダーのエチュード教本。
「なんか、つまんない」と思わずに。全クリして(させて)みてはいかがでしょう?

その道はきっと憧れのドヴォコンにつながっているはずです。


さて、ここで問題です。

ユリウス・クレンゲルはアルヴィン・シュレーダーの何歳年下でしょうか?
答えはスクロールの先にあります↓





答え。
4歳年下。
クレンゲルとシュレーダーの会話、めっちゃ真面目な話ばっかりしてそう。
いろんなところでつながっています。歴史っていいもんですね。

アルヴィン・シュレーダー(Alwin Schroeder)の年表

  • 1855.6.15

    ハルデンスレーベン(ベルリンとハノーファーの間あたり)で生まれる。

    父は地元の音楽監督であるカール・シュレーダー。4人兄弟の末っ子。

  • 1862(7歳)

    音楽の勉強をはじめる。

    ベルリンのバレンシュテットで音楽とピアノを学び、Ahnaにバイオリンを学び、Tappertに音楽理論を学ぶ。

  • 1866(11歳)

    家族の弦楽四重奏団にビオラ奏者として加入。

    1872年に解散するまで幅広く演奏活動を行いました。

  • 1874(19歳)

    ベルリンに移る。その後ライプツィヒへ。

    次兄カールが弾いているチェロに興味を持ち、独学でチェロの練習をするようになる。

  • 1875(20歳)

    オーケストラのメンバーとして、ソロデビュー。

    チェロをはじめて、約1年。早くもソロデビューしました。

  • 1877(22歳)

    ハンブルグで設立された新しいオーケストラのメンバーに。

    ライプツィヒの大学でで教員としても働き、このときにライプチヒ出身のユリアス・クレンゲル(1859-1933)と教員生活を共にする。

  • 1882(27歳)

    コンサートで拍手喝采を受ける。

    ロシア、ベルギー、オランダ、デンマークの演奏活動で成功を収める。

  • 1891(36歳)

    アメリカのボストン交響楽団の首席奏者に。

    同楽団には1891年から1903年までと1910年から1912年までの間、そして1918年から1925年までの間に在籍

  • 1895年頃(40歳)

    ドヴォルザークにチェロの技術面のアドバイスをする。

    アルヴィンのアドバイスをもとに1895年2月にドヴォルザークのチェロ協奏曲がほぼ完成。その後、ボストンでの初演のソリストはアルヴィンが務める。

  • 1903(48歳)

    ボストン交響楽団をやめる。

    同楽団には1891年から1903年と、1910年から1912年までの間に在籍。

  • 1918(63歳)

    3度目。アメリカのボストン交響楽団の首席奏者に。

    これが本当に最後の復帰です。1918年から1925年の間に在籍。

  • 1925(70歳)

    ボストン交響楽団を退職。

    これが本当に最後の退職です。70歳までオケマンやってたなんて、体力がすごい。

  • 1928.10.17

    ボストンにてこの世を去る。

    享年73歳。


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