1783年生まれ。バッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜を最初に出版した人。 ドッツァー(Friedrich Dotzauer)のチェロ・エチュード教本

《最終更新日:2019/09/09》

ドッツァーのエチュード教本と言えば、シュレーダーと同じく、コンクールや入試の課題曲として多く取り上げられています。

さてこのドッツァーの教本をつくったフリードリヒ・ドッツァー(ドッツアウアー、ドッツァワーとも呼びますが、ここではドッツァーと呼びます)は、どんな方だったのでしょう。

フリードリヒ・ドッツァー(Friedrich Dotzauer)1783年生まれ。ドイツのチェロ奏者であり、作曲家。

「113の練習曲(113 Etudes for Cello)」は全4巻あり、それを編集した人です。

さてドッツァーの生まれた年、日本では浅間山の大爆発があり、東北地方を中心に全国的な大飢饉が起こっています(天明の大飢饉)。天変地異に加え、東日本のどこの藩も大飢饉。この時代、江戸のお米は、ほとんど東北の諸藩で作られていたのですが、江戸へ送るどころか自分達が食べる分もないありさまに陥ります。牛・馬や道端の草、土壁の中のワラまで食べつくしても、なお足りないような状態だったとか。

さて、話をドッツァーに戻します。
ヒルトブルクハウゼン(ドイツ中央部)で生まれたフリードリヒ・ドッツァー。ドイツ人です。

フリードリヒ・ドッツァー(Friedrich Dotzauer)めっちゃエチュードが上手そうな顔。そして「先祖代々、真面目です」って顔。

牧師である父のもとに生まれ、ドッツァーは小さい頃から利発だったそうです。
そしてピアノ、コントラバス、バイオリン、クラリネット、そしてホルンなど、多くの楽器を学びました。

バッハの最後の弟子であるヨハン・クリスチャン・キッテルの弟子であるオルガニストのリュットマイアーからオルガンの演奏法や、バッハの作品に関する知識を教えてもらったそう。つまりドッツァーは、J・S・バッハのひ孫弟子ということになります。

チェロは、すべての楽器に通じていた宮廷トランペット奏者のヘプナーから手ほどきを受けました。

その後、父に連れられてマイニンゲンに行き、デュポールの弟子で侯爵邸の楽団の一員であったJ・J・クリークに師事。この楽団で、当時の最高レベルの演奏に感銘を受け、2年間の厳しい修行のあと、ヒルトブルクハウゼンの宮廷音楽会で、プレイエル作曲の変奏曲を弾いてデビューしました。

そして、マイニンゲンのオーケストラに入団。教会や、演奏会、劇場の演奏活動で、たくさんの音楽経験を積み重ねていきました。

1805年、22歳でライプチヒに移り、オーケストラで活躍するかたわら、弦楽四重奏団を結成。ベルリン滞在のときに、ロンベルク(1767-1841)の演奏に感銘を受け、ロンベルクに直にレッスンをしてもらったそうです。
ロンベルクのマスタークラス、めっちゃよさげ。わが子にも受けさせたい。


ドッツァー
「あ、あの、僕。あなたの演奏を聞いてすごく感動しました。今チェロを勉強していて、もしよければ教えてもらいたいです!」

ロンベルク
「え?俺忙しいんだけど。まぁいいや。時間ある時にレッスンするから、とりあえず次のレッスンまでにコレとコレとコレをやってきて。」

ドッツァー
「は、はい!ありがとうございます!一生懸命やります!」

何日か後、初のレッスン。

ロンベルク
「ちゃんとやってきた?とりあえず聞かせて。」

ドッツァー
「は、はい!」

ドッツァーが課題の曲を弾く。

ロンベルク
「(うーん、まだまだだな。)オッケー。じゃあ次はコレとコレやってきて。」

ドッツァー
「は、はい!」

そんな風に何回かレッスンを受けたあと、ある日のレッスンの様子。

ドッツァーが課題の曲を披露。

ロンベルク
「(こいつ!どんどん上手くなってきてる!まずい。俺の地位を脅かすかもしれん…)」

ドッツァー
「せ、先生?僕の演奏、どうでしたか?」

ロンベルク
「バカ野郎!能なし、もう一度学校に入って勉強をやり直してこい!」

ドッツァー
「ひ、ひぃー、はい!」

ロンベルク
「(俺としたことが、キツい言葉を浴びせてしまった。でもあいつ、やっぱりすごい!)」

なんてやり取りがあったとかなかったとか。
やっぱりロンベルクのマスタークラス、怖いから遠慮したいかもしれない。

ちなみに「バカ野郎!~」のセリフは実際にロンベルクが言ったエピソードです。


ロンベルクとの出会いで得たものはとても大きく、ドッツァーの演奏技術の飛躍につながりました。最後にはロンベルクの最も難しい作品を弾きこなせるようにまでに成長。

1811年、28歳の時にドッツァーは、ドレスデンの宮廷楽団に招かれます。当時、ドレスデンではウェーバー(チェロっ子大好き、狩人の合唱を作曲した人)がそれまでのイタリア・オペラの支配を打ち破って、ドイツ人作曲家によるドイツ語のオペラをつくり、新しい道を切り開いたばかりでした。1850年まで、この宮廷楽団に首席チェリストとして39年も所属することになります。

そして1860年の3月6日。77歳でこの世を去りました。
ドッツァーの息子であるユストゥス・ベルンハルト・フリードリヒは優れたピアノ教師として、ハンブルクで活躍。もうひとりの息子、カール・ルードヴィヒは、カッセルの宮廷楽団の首席チェリストとして活躍しました。

ドッツァーの死後、彼の演奏は「最高の堅実さと、特別な優美さを備えている」ものとして讃えられ、シュポーアやベルリオーズもまた賛辞の言葉を述べたそうです。

作曲家としてのドッツァーは、オペラや序曲、交響曲や室内楽も手がけましたが、後世に残るほどの作品ではなかったようです。

9つのチェロ協奏曲や、いくつかの小協奏曲、ソナタ、変奏曲、二重奏などがありますが、165以上にのぼる作品の主なものは、当時流行していたメロディーのつなぎ合わせを組み合わせた構成。

1837年にドッツァーによって初めて書かれたフラジオレット奏法の教本を出版。そして何と言ってもドッツァーの大きな功績はJ・S・バッハの6曲の無伴奏チェロ組曲を初めて出版したことです。J・S・バッハのひ孫弟子ですからね。

もしかしたら、ドッツァーによって初めて出版されたバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜を、若いパブロ・カザルスが手に入れて、世に広めたのかもしれません。

やっぱり歴史はつながっています。


さて、ここで問題です。

ドッツァーはロンベルクの何歳年下だったでしょうか?
答えはスクロールの下に↓






答え。
16歳年下。

ロンベルクはドッツァーにレッスンの手ほどきをしていました。みるみる上手くなっていく若者に危機感を覚えたのでしょうか?

あまりのドッツァーの成長ぶりに「やばいぞ、こいつ。俺をあっという間に追い越すかもしれん…。今のうちに若い芽を摘んどかねば…。」とロンベルクは感じたのかもしれません。

フリードリヒ・ドッツァー(Friedrich Dotzauer)の年表

  • 1783.1.20

    ヒルトブルクハウゼン(ドイツ中央部)で生まれる。

    父親は地元の牧師で、熱心な音楽愛好家。幼い頃からピアノ、コントラバス、バイオリン、クラリネット、そしてホルンなど、多くの楽器を学ぶ。

  • 1798(15歳)

    宮廷コンサートで演奏。

    プレイエル作曲のチェロの変奏曲を披露。

  • 1799(16歳)

    マイニンゲンに移る。

    当時有名だったドイツのバイオリン奏者であり、宮廷楽団のコンサートマスター(ジャン・デュポールの弟子)J・J・クリークのもとで2年間の修業をする。

  • 1805(22歳)

    ライプツィヒに移る。

    Matthei、Campagnioli、Voigtと共にカルテットを結成し、高い評価を獲得。

  • 1810(27歳)

    ライプツィヒで12回のコンサートを行う。

    これらはヨーロッパで最初の公演カルテットコンサートの1つと言われています。

  • 1811(28歳)

    ロンベルクを聴くためにベルリンを訪れる。

    ロンベルクのレッスンを受け、演奏技術が飛躍的に向上。ドレスデンの宮廷楽団にチェリストとして招かれる。

  • 1841(58歳)

    ドレスデンにて2つのコンサートを開催。

    コンサートの演奏を見ていたベルリオーズは「私がすでに挙げた優れた芸術家のほかに、優れた教授ドッツァウアーがいる。」

  • 1850(67歳)

    ドレスデンの宮廷楽団を引退。

    39年間勤め上げたドレスデンのオーケストラを引退しました。

  • 1860.3.6

    ドレスデンにて亡くなる。

    享年77歳。


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