1749年生まれ。フランスのチェロ演奏法を確立した人。 デュポール(Jean Louis Duport)のチェロ・エチュード教本
《最終更新日:2019/10/15》
先日のレッスンで先生に、「次のエチュードの教本はコレ買っといて。楽天なら安いよ。」
とスマホの画面を見せてもらって、指定されたのがデュポール(Duport)の教本。
その時は、
「はい。わかりました。」
と返事はしたものの、心の中では、
「何て読むの?ドゥポルト?デューポール?とりあえず先生がスマホをしまう前にスペルを覚えないと!」と焦っていました。
さてこのデュポールの教本をつくったジャン・ルイ・デュポールは、どんな方だったのでしょう。
ジャン・ルイ・デュポール(Jean Louis Duport)1749年生まれ。フランスのパリで生まれたチェリスト兼作曲家。父はダンスの先生。お兄さんは、当時第一線のチェリストとして活躍していたジャン・ピエール・デュポール(Jean Pierre Duport 1741-1818)です。
フランス人なので、正解の読み方は「デュポーッカッッッ!(フランス語独特のRの発音)」ですが、登場するたびに「デュポーッカッッッ!」って書くとビックリするので、ここではデュポールに統一し、さらにピエールお兄さんと混同するのでルイと呼びます。
ルイが生まれた1749年、日本ではさほど大きな事は起こっておらず、1年前の1748年に竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」が竹本座で初演されました。
以前、文楽の「仮名手本忠臣蔵」を見に行ったことがあるのですが、若い頃だったので、よくわからず寝てしまいました。今なら寝ない!(と思う)
さて話をジャン・ルイ・デュポールに戻します。
「ちゃんとカッコよく描いてよ~」ってルイの声が聞こえてきそうな肖像画。
最初はピエールお兄さんにバイオリンを習っていましたが、お兄さんの成功を見たルイはバイオリンからチェロに転向することを決意しました。
お兄さんの指導と、今まで培ったバイオリンの技術のおかげで、めきめきと上達。
若いロンベルクも出演していた、とある男爵のサロンにも出演し、名声を確立しました。
当時パリで権威のあったバイオリニスト、ジョバンニ・バティスタ・ビオッティ(1753 – 1824)の後押しもあり、さらに有名な存在に。
ビオッティはとても魅力的なイタリア人で、彼のきらびやらかでスケールの大きい演奏法をルイ自身のチェロの演奏に取り入れました。
その結果「最高のチェリスト」という呼ばれるまでになったのです。
その後、招かれて半年間イギリスに滞在した後、パリ・オペラ座の首席チェリストに。しかしフランス革命が起こり、状況は悪化。音楽家たちの生活はままならなくなり、多くの芸術家がパリを離れたといいます。
ルイもお兄さんを頼ってベルリンへ。すぐに宮廷楽団の室内楽奏者として採用され、そこに17年間所属していました。
そりゃ即戦力ですよね。バリバリの実績がある中途採用。頼もしい。
しかし1806年のナポレオンのプロシア征服によって、ベルリンを去り、しばらくの間ミュンヘンの宮廷楽団で働いたあと、失意のうちにパリに戻りました。
そのときにはジャン・バティスト・ブレヴァール(1756 – 1825)、シャルル・ボーディオ(1773 – 1849)、フランソワ・オリビエ・オーベール(1763生まれ)など同輩チェリストが高い名声を得ていました。
ルイにとってその中に入って自分の地位を築くことは簡単なことではありませんでしたが、1807年、後にロッシーニの妻となる歌手コルブランとともに開いた演奏会で、パリの人々からその腕前を称賛されるようになりました。
当時、マルセイユにいたスペイン王カール4世は、ルイに地位を与え、1812年までその地位に留まりました。しかしカール4世がナポレオンによって退位させられ、地位を失ったルイは再びパリに戻ります。
歴史で習ったナポレオンが音楽の世界まで影響をおよぼしていたんですね。
ルイはパリに戻ったときには、すでに高齢になったにもかかわらず、パリで演奏を行い成功を重ねました。
パリの人々は、ルイの信じられないほどの技術で演奏する完璧さや、その自然なボウイングと左手の正確な動きを称賛しました。
その頃にはマリ・ルイーズ皇后のもとで室内楽奏者として、また宮廷楽団の団員や音楽学校の教授として働き、経済的にも安定したようです。
ちなみにこんなエピソードも↓
内輪のコンサートで演奏を披露していたルイ。
その場にはナポレオンもいて、つかつかとルイのところへ歩み寄ってきた。
ルイから楽器を取り上げると、馬にまたがるように足を広げて腰を下ろし、
「これはどうやって持つんだね。ムッシュー・デュポール」と尋ねた。
自分の美しいストラディバリウスがナポレオンの靴についた拍車で押しつぶされているのをみたルイは
「陛下!」とあまりに悲痛な声を出したため、ナポレオンは笑って楽器を彼に返した。
ちなみに拍車ってこれのこと↓調子に乗りまくっているナポレオンのことだから、もっと派手で装飾ゴテゴテのやつだったに違いない。
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こんなのを付けた品のない男がチェロにまたがる…、考えただけでも恐ろしい…。
急に出世して調子乗ってる人の典型的な悪い例。
私だったら蹴り倒す。でも楽器ごと倒れたら困るので、やっぱりやめとく。
「陛下!」ビックリしただけのルイは人間ができてる。
ちなみにデュポールに返したときには、すでに楽器はへこんで割れていて、その後、修復されたものの、今も小さな傷が残っています。
やっぱり飛び蹴りだな。裏庭で。
その後、パリ音楽院の教員となり、王政復古後のルイ18世の宮廷楽団の一員として過ごし、1819年9月7日。肝臓の病気のため70歳でこの世を去りました。
今も現役バリバリで使われているこのエチュード教本。中にはこう記されています。
「何度も繰り返して、自分自身で試してない不必要な理論や音階、音型、パッセージ、練習曲などは一切書いていない。常に私の師で、またこれからも師である兄によって、またすべての弟子たちによって、繰り返し練習されるように、この練習曲を委ねる。」
はい。がんばります。委ねられました。
だから早く届いてほしい。(輸入品なので2週間かかると言われた。追記:記事を書いた数日後に届いて無事に委ねられ中でございます)
さて問題です。
ビオッティはルイ・デュポールの何歳年下でしょうか?
答えはスクロールの下↓
4歳下。
1910年。マリー・アントワネットの演奏会で、ルイはビオッティと二重奏をする予定でした。
が、ビオッティは来ず、ルイが初見でバイオリンのパートをとんでもないテクニックで演奏。「仮にビオッティがそこにいたとしても、それ以上の演奏は望めなかったであろう」と記録されています。すごい。すごいよ、ルイ。
ビオッティ、きっとスケジュール帳に『アントワネットの家で、ルイと二重奏(大事!)』って書き忘れたんだと思う。もしくは行く宮殿を間違えて、「もう間に合わないからいっか」そのまま開き直ったか(私がたまにやるやつ)。たぶん。たぶんね。
ジャン・ルイ・デュポール(Jean Louis Duport)の年表
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1749.10.4
フランスのパリで生まれる。
父はダンス教師。
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バイオリンをはじめる。
ピエールお兄さんにバイオリンを習う。
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バイオリンからチェロに転向。
ピエールお兄さんの成功を目の当たりにして、チェロに転向。
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めきめきとチェロの腕前が上達。名声を得ることに。
バイオリニストのビオッティの後押しもあり、さらに有名な存在に。
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ビオッティの演奏法を取り入れるように。
彼のきらびやらかでスケールの大きい演奏法を取り入れ、最高のチェリストと呼ばれるまでに。
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半年間イギリス滞在のあと、パリ・オペラ座の首席チェリストに。
順風満帆な生活だったそう。
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1789(40歳)
フランス革命が起こり、状況は悪化。
音楽家たちの生活はままならなくなり、お兄さんを頼ってベルリンへ。
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1891(36歳)
ベルリンの宮廷楽団の室内楽奏者として採用。
ここに17年間所属。
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1806年頃(57歳)
ナポレオンのプロシア征服によってベルリンを去り、ミュンヘンを経て、パリに戻る。
パリには同輩のブレバール、ボーディオ、オーベールが高い名声を得ていたが、ルイが開いた演奏会で、パリの人々からその腕前を称賛されるように。
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1812(63歳)
マルセイユの宮廷楽団に入団し、1812年まで在籍。
しかし、パトロンであるカール4世がナポレオンによって退位させられ、地位を失ったルイは再びパリに戻ることに。
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パリで演奏を行い成功を重ねる。
パリの人々は、ルイの信じられないほどの技術で演奏する完璧さや、その自然なボウイングと左手の正確な動きを称賛。
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マリ・ルイーズ皇后のもとで室内楽奏者、宮廷楽団の団員や音楽学校の教授として働く。
教育者としても第一線で活躍。
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1819.9.7
肝臓の病気のため、この世を去る。
享年70歳。
チェロのエチュード教本の記事一覧
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